アメリカ独立戦争の話とそれに由来する州ニックネームの話は「植民地時代,独立戦争に関係する州ニックネームの話 mohamoha26」で紹介しました。
独立戦争の紹介をしたならば,南北戦争の紹介もしたいと思っていたところ,南北戦争に深くかかわる人物「エイブラハム・リンカーン:Abraham Lincoln」の名をニックネームとする州があったため,ぜひ詳しく調べ紹介しようと思いました。
独立戦争よりも南北戦争の方が悲惨だったということを聞いたことがあります。
それはなぜなのか…。
まずはそこから話を始めたいと思います。
戦列歩兵の話
「戦列歩兵: Line Infantry」は,簡単に言えば,ヨーロッパを中心とした歩兵の隊列の組み方であり,戦争のやり方の一つだったと言ってよいと思います。
特に17~19世紀では主流だったそうです。
①歩兵がみんなで横一列の隊列を組み,太鼓に合わせて前に行進していきます。
②あるところまで来たら銃を構え,撃ちます。
③さらに前に行進し,銃を構え,撃ちます。
④隊列の後ろには大砲があり,敵めがけてどんどん撃ちます。
これらをリーダーの掛け声や太鼓の合図に合わせて,歩兵全員が同じ動きをするのです。
両軍が向かい合わせに同じ行進をしながら,お互いに弾が行き交う中で行われるため,当然,行進の最中に弾が当たって倒れる者が出てきます。
それでも隊列を崩さず,前進を繰り返します。
そのうちどちらかの軍が,怖さから,または犠牲者が多くなったために隊列が崩れ始めます。
隊列が崩れたとみると,太鼓の合図が「突撃」になり,全員で突っ込んでいき白兵戦になります。
戦争映画を見た経験がある方はイメージできると思いますが,見たことがない方は文章ではイメージがつきにくいかもしれません。
ちょっとえぐいですが,メル・ギブソン主演の映画「パトリオット:The patriot」を見ると,戦列歩兵がどのようなものか分かります。
「パトリオット」は独立戦争時の物語で,映画の終盤に「戦列歩兵」が見られます。
次に,デンゼル・ワシントンやモーガン・フリーマンが出演している「グローリー:Glory」においても,戦列歩兵が見られます。
「グローリー」は南北戦争時の物語で,映画の序盤に「戦列歩兵」が見られます。
独立戦争と南北戦争は約90年しか違いはありません。
それほど戦法的には大きな違いは無いと言えるそうです。
では,なぜ南北戦争の方が悲惨だったのか。
この「戦列歩兵」は銃の性能が悪かったからこそできた戦法であり,独立戦争より南北戦争の方がはるかに銃の性能が良くなったために,南北戦争の時の「戦列歩兵」は「悲惨を極めた」というわけです。
両軍併せて61万8千人(北軍36万人,南軍25万8千人)が戦死しました。
これは第二次世界大戦の約32万と比べると倍に近い数です。
戦死者だけでも,どれだけ南北戦争が悲惨だったかを物語っています。
南北戦争は,どことどこの戦いだったのか
まず「南北戦争」は英語で何というか。
「南北戦争:American Civil War または War Between the States」
「Civil:市民の」の意味ですから,「アメリカ市民同士の戦争」または「アメリカの州の間の戦争」となります。
独立戦争でイギリスから独立し,それぞれ州ができます。
アメリカの独立までの話は「植民地時代,独立戦争に関係する州ニックネームの話 mohamoha26」で紹介しています。
その州が2つに分かれて,争ったわけです。
敵同士になった州はバラバラな位置にあったわけでなく,アメリカの北部にある州と南部にある州に分かれました。
和名では,アメリカにある州が南北に分かれて争ったことから「南北戦争」と呼んでいます。
南部の人たちは,この戦争を「南部独立のための戦争:War for Southern Independence」と呼んだり,「北部侵略の戦争:War of Northern Aggression」と呼んだりしているそうです。
「南部」「北部」という捉え方はアメリカでもされているようです。
「北軍」のことを「北部:the North」の他に「ユニオン:the Union」「連邦軍:Federals」「国民軍:the National Army」と呼んでいるそうです。
「南軍」のことを「南部:the South」の他に「コンフェデラシー:the Confederacy(連合の意)」「脱退派::Secesses(secessionで脱退の意)」「ディキシー:Dixie(南部をディキシーランドと呼んでいることは既に紹介しました)」と呼んでいるそうです。
南北戦争時のそれぞれの州が北軍なのか南軍なのかは,西部開拓も行われていたり州の独立もあったりして,けっこうややこしいです。
南北戦争は1861~65年の4年間行われました。
最終的には下の図のように「北軍」「南軍」「もともと南軍だけど北軍」の3つに分かれました。
アメリカのこの時期は,イギリスからの独立から100年もたっておらず,西部開拓の真っ最中だったこともあって混沌としていました。
アメリカという国家が,まだ未完成だったとも言えます。
日本へ黒船でやってきた「ペリー来航」は南北戦争のちょっと前の出来事です。
混沌としていた時代にアメリカ政府の方針に不満を持つ州が出てきました。
南北戦争は「南部の州がアメリカから独立するための」戦争です。
どのような経緯から南北戦争に至ったのでしょうか。
南北戦争が起きた背景
1800年代前半に,北部の経済は急速に発達します。
工業化するにつれ,運河や道路,蒸気船,鉄道などの輸送システムにも多額の投資をして,より発達していきました。
銀行や保険等の金融や電信通信ネットワークも発達し,安価な新聞や雑誌,書籍が入手可能でした。
南部の経済はというと,主に綿などの商業作物を生産する大規模な農場(プランテーション)に基づいていました。
主な労働力は奴隷であり,奴隷に依存していました。
北部のように工場や鉄道に投資するのではなく,南部の人々は工場や鉄道よりも奴隷に投資していたのです。
そして,綿の価格は1850年代に急騰し,労働力である奴隷はより南部の人々の財産となります。
1860年頃の南部の州の奴隷を除く一人当たりの富は北部の人々の2倍あり,国内で最も裕福な個人の5分の3は南部の人々だったそうです。
この様に工業化した北部と商業作物のプランテーションが盛んな南部の対立が深まっていきます。
南部の綿花はヨーロッパへの輸出により利益を上げていたため,より外国との貿易は自由に行う政策を望んでいました。
対する北部は,上記で説明したように工業化を成し遂げ,外国の工業製品よりも自国の工業製品をアメリカ国民に買ってもらいたいため,自由に貿易を行うよりも外国からの工業製品には関税をかける保護貿易を望んでいました。
さらには,奴隷は奴隷制の下で財産と考えていた南部に対して,北部は奴隷制をやめ,奴隷をアメリカ国民として工業化への労働力,そして工業製品を国内で購入する購買力として期待していました。
北部 | 南部 | |
奴隷制 | 奴隷制廃止 奴隷を工業への労働力へ 奴隷を工業製品を購入する購買力へ | 奴隷制存続 綿花栽培には奴隷の労働力は必要 奴隷は財産 |
貿 易 | 保護貿易 国内で自国の工業製品を売るために 外国からの製品に関税をかける。 | 自由貿易 綿花をヨーロッパにより売るために 外国からの製品に対して関税をかけない。 |
南北戦争が起きるまでの経緯
上記の理由で南部と北部の対立がある上で,1803年にトーマス・ジェファーソンによりフランスから購入された「フランス領ルイジアナ」の開拓が進むにつれ,新しく生まれる州が,南部の主張する奴隷制の州になるか北部の主張する奴隷制を認めない州になるかが重要になってきます。
新しく生まれる州に対する北部と南部による争奪戦になったわけです。
これにより,南北の対立がより深まります。
新しい州が成立するとその州が「奴隷制で自由貿易推進の州」になるか「奴隷制反対で保護貿易推進の州」になるかがとても重要なポイントと言いましたが,その州から出されるアメリカ連邦議会の上院議員や下院議員が関係しています。
州の代表の国政の議員が「北部の考え方」になるのか「南部の考え方」になるのか,それにより国の方針がより多数の方に民主主義で決まります。
1820年,北部と南部は「ミズーリ協定:Missouri Compromise」というものを締結し,北緯36度30分より北に生まれる新しい州は奴隷制度を認めない自由州に,それより南に生まれた州は奴隷州にすることにしました。
北部としては,ミズーリ州自体を奴隷制度を認める州になることと引き換えに,このような協定を成立させたのでした。
1836年メキシコ領だったテキサスが独立し,1845年アメリカの連邦に加わります。
これが発端となり,1846~48年に「アメリカ・メキシコ戦争」になります。
アメリカはテキサスだけでなく,カリフォルニアやニューメキシコなど当時のメキシコの約半分の土地を手に入れます。
「テキサス」は奴隷制の州となりますが,「カリフォルニア」は奴隷制を認めない自由州に,「ニューメキシコ」については州民が決定することになります。
1854年,西部に誕生した「カンザス州」「ネブラスカ州」が州民の投票により奴隷制の州になる可能性が出てきたため,北緯36度30分の境界ラインを約束した「ミズーリ協定」が無効となります。
結局,1861年にカンザス州は奴隷制を認めない自由州となります。
それまでの州は北部と南部でだいたい均衡がとれていたのですが,北部の方に新しくできた州がよりついたために,南部の州がより危機感を持つことになります。
そして1860年の大統領選挙で,反奴隷制の共和党の候補者である「エイブラハム・リンカーン:Abraham Lincoln」が勝利しました。
それを機に,まずは南部のサウスカロライナ州がアメリカ合衆国からの脱退を宣言します。
その後,ミシシッピ州,フロリダ州,アラバマ州,ジョージア州,ルイジアナ州,テキサス州も脱退を宣言します。
1861年2月にこれらの脱退した7つの州が「アメリカ連合国:Confederate States of America」を結成し,アメリカ合衆国からの分離・独立を目指します。
首都をアラバマ州のモンゴメリーに置き,暫定大統領も指名します。
リンカーンが大統領に就任した後の4月に,南軍がサウスカロライナ州のチャールストンで戦い(サムター要塞の戦い)を始めます。
これが南北戦争の始まりです。
画像は,現在のサウスカロライナ州にある「サムター要塞:Fort Sumter」です。
「サムター要塞国立モニュメント:Fort Sumter National Monument」になっています。
以前このブログで紹介した「ブラウンペリカン」の群れのバックに要塞があります。(「ペリカン州」「ビーバー州」「ゴーファー州」:動物由来の州ニックネームの話① mohamoha16)
南北戦争中のあらまし
南北戦争勃発後,まずはヴァージニア州が北軍から独立し,南軍に加盟します。
続いて,アーカンソー州,ノースカロライナ州,テネシー州が南軍に加盟します。
南軍は,アラバマ州のモンゴメリーから「ヴァージニア州のリッチモンド」に首都を移します。
ヴァージニア州からウェストヴァージニア州が離脱し,北軍に加わります。
それまで中立を保っていたケンタッキー州が北軍に加わります。
1862年,リンカーン大統領が,5年間定住すれば土地を無償で提供する「ホームステッド法」に署名します。
これは,西部地域の北軍への支持を集めるために行ったことでした。
1863年,リンカーンは「奴隷解放宣言:Emancipation Proclamation」を発布します。
戦争が長期化するにつれて,装備,人口,工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていきます。そして…。
7月,南北戦争最大の激戦であったペンシルベニア州の「ゲティスバーグの戦い:Battle of Gettysburg」に北軍が勝利し,北軍の優勢はゆるぎないものになります。
現在は「ゲティスバーグ・ナショナル・ミリタリー・パーク:Gettysburg National Military Park」というゲティスバーグの古戦場や南北戦争博物館がある広大な公園になっています。
11月,ゲティスバーグの戦場を国立墓地にして,戦死者を弔う式典が行われた際,リンカーン大統領のあの有名な「ゲティスバーグの演説:Gettysburg Address」が行われます。
1864年,リンカーンが大統領に再選されます。
1865年1月,奴隷制度を廃止する憲法修正第13条が可決されます。
4月,北軍が南軍の首都であるリッチモンドを占領し,南北戦争が終結します。
南北戦争が終結した5日後に,フォード劇場にてリンカーン大統領が狙撃されます。
12月,憲法第13条が発効し,奴隷制度が全面的に撤廃されます。
リンカーンの州は,どこの州?
南北戦争の時の大統領と言えば,誰もがリンカーンと答えることができるくらい,よく知られた大統領です。
イリノイ州
ランド・オブ・リンカーン:Land of Lincoln
リンカーンの州
日本のサイトではイリノイ州のニックネームとして紹介されているところがあるのですが,正確に言うと「ランド・オブ・リンカーン」は1955年に指定されたイリノイ州の公式の「スローガン:slogan」になります。
「ニックネーム」は呼び名だとかの愛称になりますが,「スローガン」はちょっと意味が違ってきます。
スローガンは州の理念を簡潔に表した句みたいなもので,「ランド・オブ・リンカーン」は,民主主義の象徴とみなしている第16代アメリカ大統領リンカーンの政治理念や人間性等を受け継いでいくという信念を表していると思います。
インディアナ州出身のリンカーンとイリノイ州の関係はと言うと,リンカーンが21歳になった1830年にイリノイ州に移り住み,1861年に大統領になるまでいたということになります。
その間,イリノイ州議会の議員だったり,イリノイ州代表の米国下院の議員だったりしました。
米国造幣局のイリノイ州200周年記念25セントコインには,若い頃のリンカーンが刻まれています。
また,イリノイ州の車のナンバープレートにも「Land of Lincoln」と書かれています。
イリノイ州の「スプリングフィールド:Springfield」にはリンカーンの家があり,アメリカ国立公園局が管理する国定史跡になっています。
また,同じくスプリングフィールドにあるリンカーンのお墓はイリノイ州の史跡になっています。
画像で確認すると「お墓:tomb」はモニュメントになっていて,イリノイ州に訪れるならば必ず行ってみたいと思いました。
画像は,イリノイ州「シカゴ:Chicago」にある「グラント・パーク:Grant park」にある銅像です。
グランド・パークでは,6月に「シカゴ・ブルース・フェスティバル:Chicago blues Festival」,6~7月に「食の祭典:Taste of Chicago」,8月に「ロラパルーザ(ロック・フェスティバル):Lollapalooza」の大規模イベントが開催されます。
旅行でシカゴ訪問を計画するのであれば,この時期に行ってみたいものです。
リンカーンの有名なあの演説はどこで行われた?
リンカーンと言えば「人民の人民による人民のための政治:government of the people, by the people, for the people」という演説の中のこの文言が真っ先に思い浮かびます。
この演説は,いつ,どこで,述べられたものなのでしょうか。
「南北戦争中のあらまし」の項でちょっと触れましたが,南北戦争における最大激戦で,勝敗を決める決戦だったとも言える「ゲティスバーグ:Gettysburg」は,戦いの後,戦没者の墓地に整地されました。
1863年11月19日にこのペンシルベニア州ゲティスバーグにおいて,国立戦没者墓地の奉献式が行われました。
そこでのリンカーン大統領の演説が,アメリカ史上最も重要な演説になります。
画像は,現在のゲティスバーグにある「ゲティスバーグ・ナショナル・ミリタリー・パーク:Gettysburg National Military Park」にあるものです。
大統領の演説の全文です。
文章の終盤に「government of the people, by the people, for the people」の綴りが見られます。
かなり短いという印象を受けます。
実際に2分ぐらいの演説だったようで,さらには,マイクがなく,大統領も大声を張り上げて演説したわけでなく,ぼそぼそと演説したために,新聞各社のカメラマンは気づくのが遅れて新聞社の写真としては残っていないそうです。
しっかりと聞いていた記者がおり,大統領に原稿を求め,翌日の新聞にその原稿が載り,民衆に知られるようになったそうです。
ゲティスバーグで演説されたので「ゲティスバーグ演説: Gettysburg Address」と言われています。
実はこのブログの以前のページで「ゲティスバーグ演説」を紹介していました。
その時は「私の知識不足で,後で詳しく調べる」と書いています。
その時は「ゲティスバーグ演説」と「人民の人民による人民のための政治」が結びついていませんでした…。
そのページでは,アメリカ合衆国における3つの大事な文書の一つが「ゲティスバーグ演説」だと紹介しています。(植民地時代,独立戦争に関係する州ニックネームの話 mohamoha26)
「リンカーン」の映画をみなさんはご覧になったでしょうか。
なかなかぼうっと見ることはできない,見るのにエネルギーを要する映画なのですが,リンカーン大統領がいかにして「合衆国憲法修正第13条案」を議会にて議決させたかの内容になっています。
リンカーン大統領と言えば「奴隷解放宣言」なのですが,これはあくまでも宣言であって,法的な拘束力を持つものではありません。
憲法を改正して,法的にも奴隷制をなくすことに尽力した本当に立派な大統領だと感じることができる映画です。
大統領が撃たれるシーンはなく,劇場で劇の最中に突然「大統領が撃たれた」とステージ上で報告がなされて終わるシーンが印象的でした。
今日のページは
「Britannica American Civil War United States history」
を参考にしています。
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